水色のカーテン越しに差し込む太陽に急かされて、貴重な朝寝坊は終わりを告げた。
ぼんやりから抜けきらないまま顔だけ洗ってリビングに行くと、ヒカリが手のひらサイズのなにかに絵の具で色を塗っていた。
「日曜だからって寝すぎじゃない」
窓の外はくっきりとした青空、気持ちの良い休日。
ベランダではシーツやタオルがひらひらとはためいている。
「まだ午前だからセーフだろ」
ダイニングテーブルの上に鎮座ましますのは長方形のサンドイッチがひーふーみーよー。
ふつうのたまごフィリングかと思いきや、半分に切られた食パンの間に挟まっているのはどうやら厚焼き玉子だ。
「これ、食べていいのか」
「お兄ちゃんのぶんよ」
リビングのソファから声だけ飛ばされてきた。
ダイニングチェアに腰掛けるのとほぼ同時にサンドイッチをつかんで口元へ。
バターをたっぷり塗られた12枚切のパンと、厚焼き玉子のほんのりした甘味。
「ヒカリがつくったのか」
「イースターのたまごつくりたかったから」
「これうまい」
あまじょっぱい永久機関で口が大層しあわせだ。
「復活祭なんだって。ネイティブの先生が教えてくれたの」
お台場中学校には月に1度英語の時間にネイティブの講師が来て英会話や英語圏の文化なんかを教えてくれる。
英語の歌や、食べ物、行事など、内容は様々だ。
そういえばハロウィンの時期にはキャンデイをもらってきていたっけ。
今ヒカリがアクリル絵の具でかわいらしく彩色しているのがイースターのたまごってわけか。
水色やピンクをベースに、花や緑の模様が春らしく描かれている。
ハイカラな行事だな。
あっという間にからっぽになった皿を流しに下げ、代わりに紅茶が注がれたカップを2つ持ってリビングへ。
片方はミルク入り、片方は砂糖だけ。
両方のカップをヒカリの前に置く。
二人分の重みを受けてソファがぎゅうと沈んだ。
ヒカリはもちろんミルク入りのカップを取ってこくんとひとくち。おいし。
「これは柄だけで、こっちはうさぎ」
6個のたまごはそれぞれ色とりどりに着飾って籠におさまっている。
ちいさな不思議の国のようだ。
「これはおにいちゃんで、こっちはヒカリ」
「俺」の方を手に取ってひっくり返してみたが、なかなかこれがよくできている。
「器用なもんだな」
ヒカリのはお台場中の制服、俺のはサッカーのユニフォーム、のようなものを着ている。
「ちょっと、乱暴に扱ったら壊れちゃうからね」
「へいへい」
お言いつけ通りにたまごの俺をそっとテーブルに置くと卵はころんと転がり、籠のわきにたてかけてあったヒカリにぶつかって止まった。
「あ、キスしちゃった」
真っ赤で艶やかなルビーが俺の目を捕まえて追いかけてくる。
「これはおにいちゃん」
ヒカリは俺の指にたまごを軽く握らせ、正面を自分に向かせた。
「こっちはヒカリ」
自分のたまごを俺と同じように握り、俺たちも、たまごたちも相対する。
こつんと、たまごで乾杯する音がした。
俺の分身はそのままヒカリのすべらかな指に包み込まれ、しかるべきところにおさまった。
「たまごのおにいちゃんはキスしてくれたのになあ」
ふっくらしたくちびるの端をきゅとあげて、うふふなんて甘えた声。
さっきまでこどもみたいに色塗り遊びをしていたと思ったら、突然こんな色めくのだから中学生はあなどれない。
14歳でこんな状態なら、これからの俺の苦労がしのばれる。
あっという間に距離をつめられて、長いまつげがもう目の前だ。
ゆでたまごみたいにつるつるのほっぺたに親指でふれると、赤い瞳の子ウサギは思い切り背筋をのけぞらせた。

#八神兄妹版深夜の真剣お絵描き文字書き60分一本勝負
2016/3/25「イースター」

湿気のこもった部屋でせんべい布団とブランケットにくるまりながら、あたしは今日読んだ本に出てきたことばを思い出していた。
「色のない緑色の考えが激しく眠る」
「チョムスキーか」
からだの向きをごろんと変えて、お兄ちゃんはあたしの顔を覗き込む。
「よく知ってるね」
「これでも大学生だぞ」
薄暗い部屋に白い歯が光った。
文法的には正しくても、意味の通らない言葉。言語学者のおじさんが考えた、ナンセンスな言葉。
「いろのないみどりいろの考えが激しく眠る」
「気に入ったのか、そのフレーズ」
「いろのないみどりいろってなんだかきれい」
裸の胸板に頬を寄せた。汗ばんだ肌にさっきまでの熱がまだ残っている。
「サイダーみたい色かな」
「色がないのと透明なのは違うんじゃないか」
「んもう。ナンセンスなんだからいいの」
「便利だな、ナンセンスってやつは」
「きっとね、夏みたいな色。蒸し暑い夜に狭いワンルームのせんべい布団で抱き合って、のどが渇いたなあと思ったら冷蔵庫からさっと出てくる冷えたサイダーみたいな色」
「つまりお姫様は今サイダーをご所望ってわけか」
あたしの手を取って王子様みたいに指先にくちづける。
「え、あるの?」
「いや、コーラしかない」
「じゃあ今度来るとき買ってくるね」
ふふふと笑ってお兄ちゃんの頬に軽くくちびるを寄せた。
ついこの間まで一緒に暮らしていたはずなのに、お兄ちゃんの家に泊りにくる生活に、あっという間に慣れてしまった。どちらかの部屋で布団をかぶって、声をひそめて抱き合うよりも、今は自由で安らかだ。お兄ちゃんが一人暮らしをするってきいたときは、そりゃもちろん寂しかったけど、もうお母さんやお父さんの目を気にしてこそこそ部屋を行き来しなくてもいいということに少しほっとした。
もちろん、高校生にもなって一人暮らしのお兄ちゃんの部屋に二週間に一度は泊りに行くような娘のことを両親がどう考えているか、気にならないわけではない。
お兄ちゃんに彼女ができたらどうするの、ときかれたときは、わかんない、としか言えなかった。
「ヒカリも大学生になったら、ここで一緒に暮らしたいな」
「ここで?ふたりではちょっと狭いだろ」
「狭くてもいいもん」
ぎゅっとからだを近づける。素肌と素肌がふれあって、熱がたまっていくのを感じる。
「そのときは、二人で暮らす部屋に引っ越そう」
お兄ちゃんの笑顔は、こんな薄暗い部屋でも太陽みたいだ。
胸がきゅうとなって、おにいちゃんを力いっぱい抱きしめた。
それよりも強い力で、あたしはお兄ちゃんの腕に抱かれた。
「ヒカリはお兄ちゃんが好き」
文法的には正しいことば。
「お兄ちゃんと結婚したい」
だけど正しくないことば。
「お兄ちゃんのこどもがほしい」
お兄ちゃんはあたしに正しくないくちづけをする。
「俺もヒカリが好きだよ」
正しくないくちびるは、あたしの頬を、額を、耳を、首筋を、のどを、胸を、背中を、指を、太ももを、足先を、順番に冒していく。
正しくないあたしたちは、さっきまでいた宵の淵まで戻ってきた。
あたしたちを隔てるすべてのものを取り去って、ふたたび夜に沈んでいく。

#八神兄妹版深夜の真剣お絵描き文字書き60分一本勝負
2016/3/11「グリーン(緑色)」

なんだってスーパー銭湯の浴衣というのはこうも防御力が低いんだ。
綿だかポリエステルだか知らないが、柔らかい布を柔らかい布で巻いただけのこころもとない装備では、ちょっと指をひっかけたら全部脱げてしまいそうだ。
浴衣からのぞく湯上り乙女の火照ったからだ。
普段は白磁のような肌も今は薔薇色だ。
藤色の浴衣と濃紺の帯が色っぽさをより際立たせている。
赤みがさした腕や脚を、熱を帯びた首筋を、誰にも見せてなるものか。
「せっかく温泉にはいったのに、また汗かいちゃう」
リクライニングを全部倒して無邪気に寝転がるヒカリの全身を大判のブランケットでくるんだ。
そんな風に無防備に横になって、どこからだれに見られているかわかったもんじゃない。
「何回でもはいればいいだろ」
「でも寝ちゃいそう」
なんでもない会話なのに、声をひそめるだけで刺激的だ。
ルーメン数の絞られた部屋、等間隔で並べられた二人用のリクライニングシート、生まれては消える囁き。
たくさんの小さな宇宙のうちのひとつに俺たちは横たわっている。
「お兄ちゃんも」
自分をそっくり包んでいたブランケットの端を引っ張って俺のほうに寄こしてきた。
ヒカリの熱っぽい手と瞳はもはや誘惑だ。
ふたりのからだが一枚の布におさまるように、少しずつ互いを近づける。
結局ほとんど抱き合うようにくっついた。
俺の浴衣の合わせをたゆませて、ヒカリは俺の胸板に直接頬を寄せる。
「熱いんじゃなかったのか」
「もう一回入るからいいもん」
はだけた藤色の浴衣の裾からあらわになったふとももが、俺の脚にからみついてくる。
汗ばんだ素足と素足はぺったりくっついて離れない。
「こら、そういうことすんなって」
吐息だけでもきこえるように、小さなかわいらしい耳のそばでくちびるを震わせた。
ぴくん、とつまさきが跳ねる。
ブランケットを頭の上まで全部かぶると、くちびるは音もなくふれた。
濡れたルビーは薄暗がりでもきらきら瞬く。
くちびるは肌と肌との境界をすべっていく。
ほほ、まぶた、鼻、みみたぶ、首筋、鎖骨を、ゆっくり線でつないでいく。
ふくらみの裾野のぎりぎりを折り返し、のどからあごをなめるように柔肌を這い上がりまたくちびるへ。
俺のくちびるがヒカリの肌の、細胞のひとつひとつをたしかめる。
声を漏らさないように、ヒカリは俺の左の人差し指を咥えていた。

#八神兄妹版深夜の真剣お絵描き文字書き60分一本勝負
2016/2/26「浴衣」

腹減ったーなんて大声とともに帰ってきたお兄ちゃんは、その足でシャワーに直行した。
汚れものを上から下から全部つっこまれた洗濯機はごうんごうんと勢いよく音を立てる。
数分後、ボリュームのある髪をわしゃわしゃ拭きながら出てきたお兄ちゃんは、エプロン姿でキッチンに立っているあたしを見て疑問に思ったらしい。
「母さんと父さんは?」
「バレンタインだから二人で食事に行くって、朝言ってたじゃない。」
そうだっけ、なんてわざとらしく口にして、頭を振る。
赤銅色の髪からぽたぽたと雫が落ちる。
まるで大型犬だ。
「それでお前は、もうメシ作ってるのか?」
この痛いほどに甘ったるいキッチンにいて、よくもまあそんなことが言えたものだわ。
「見ればわかるでしょ。チョコレート作ってるの。」
製菓用のチョコ、薄力粉、無塩バター、卵、ココア、生クリーム、サワークリーム、クリームチーズ、その他様々な材料が己の役割を果たさんと並んでいる。
「今年は何作ってるんだ?」
「去年と同じよ。ガトーショコラとチョコレートチーズケーキ。材料が余ったらトリュフも作るけど。」
「やりい!俺チーズケーキのやつ好きなんだよ。」
知ってるわ。だって去年すごい喜んで、来年もこれがいいって言ったんじゃない。
「別にお兄ちゃんにあげるなんて言ってないわよ。」
なんてうそ。
たぶんお兄ちゃんにもばれてるうそ。
片目だけ目を細めて唇の端を上げている、余裕そうなその表情にいささか腹が立つ。
ピー、ピー、ピー、と、甘さで爆発しそうなオーブンがあたしを呼んだ。
オーブンを開けると、むせかえるようなチョコレートの香りで、我が家はあっという間にお菓子の家だ。
「これもう食っていいの?」
「粗熱冷ますからまだだめ。」
「なんだよケチだな。」
「ケチとかじゃないの。待っててよ、もう。」
へいへい、とカウンターキッチンの向こうでちゃんとおあずけしているこのわんこを、今すぐなでくりまわしたい。
チーズケーキは粗熱を冷ましたら冷蔵庫でちょっと冷やすから、その間にガトーショコラを焼かなきゃ。
牛乳パックで作った長方形の型に、作っておいたタネを流し込む。
どろりとゆっくり落ちてくるそれは乙女の恋の重さのようで、あたしは淡々とゴムベラで掬い取る。
センチメンタルになんてなっていられないわ。お菓子作りは戦争なのだから。
ガトーショコラは無事オーブンに格納されたので、ようやくひと段落だ。
板チョコと生クリームは少し余っているからちょっと休憩したらトリュフを作ろう。
その頃には焼きあがるだろうし。
ああ、その前にチーズケーキを冷蔵庫に移しておこうかな。
粗熱の取れたチーズケーキにラップをして型ごと冷蔵庫に入れる。
扉を閉めると、突然視界が影に遮られた。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
冷蔵庫に手をついてあたしを見下ろすその人は、先ほどまでと纏う雰囲気が全く違っていた。
背中は冷蔵庫、前にはお兄ちゃん。あたしはその場に立ち尽くすしかない。
「チョコレート、ついてる。」
頬をちゅっと吸い上げられ、あたしの頭は余熱もなしに180℃を超える。
チョコレート、ついてるなんて、絶対うそ。
だって普通に作ってたら、顔になんてつくわけないのよ。
何年お菓子作ってると思ってるのかしら。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
キッチンは薄暗くて表情は見えない。
「母さんも父さんもいないのに、ヒカリはずっとチョコ作ってるんだな。」
お兄ちゃんのためにはりきってチョコを作っているというのに、もしかして、このひとは、すねてるの?
お兄ちゃんの口からそんな言葉が出てきたことに驚いて、あたしの口から思わず笑いのようなため息がもれた。
「帰ってくるのは十時過ぎだって言ってたわ。」
まったく、世話の焼けるお兄ちゃんね。
でも今日はバレンタインだから。
わざとらしく瞳をつむってあげちゃう。
後ろでぶうんと冷蔵庫が鳴った。
お兄ちゃんは、大型犬なんかじゃなかったわ。

#八神兄妹版深夜の真剣お絵描き文字書き60分一本勝負
2016/2/12「バレンタイン」

2016/1/24 DIGIコレ2お疲れさまでした!
東5 と 34a にて太ヒカひとりアンソロとタケヒカ新刊を頒布致しました。
お立ち寄り頂いた方、新刊をお持ち帰りいただいた方、ありがとうございました。
思ったよりもたくさんの方が来てくださって、嬉しい限りです。
今回も自家製本だったわけですが、前回よりもきれいにできたと思います。
太ヒカの方は濃紺に銀で宵の明星、タケヒカの方はピンクに若草色で春霞をイメージしてつくりました。
太ヒカの見返しに使ったメタル系の紙がきれいでとても気に入っています。
紙を切って、のりをぺたぺたして、紙を貼って、折って、のりをぺたぺたして、
なんとも地味な作業で心が折れかけましたが、きれいにできるとうれしいですね!
当日スペースで表紙に金マステ貼ってぎりぎり完成させたのですが、
前回も当日スペースで表紙にレーステープ貼ってたなあと思い出しました。
余裕…!
せっかく八神ヒカリさん02冬服コスしていたのにほぼほぼスペースで無配のステッチ綴じをしていたことが悔やまれます。
全部終わらせてから搬入とかしてみたいです。
あの、スペースに来て「ぐりさんですか?」と話しかけてくださった方、
無配の糸綴じしていて気づかなかったり挙動不審だったりしていて本当にすみませんでした。

今回太ヒカは挿絵を描いていただいたのですが、これがまた素敵で…。
妖艶で美しい八神ヒカリさんを本当にありがとうございました。
本当にいろいろわがままをきいてもらって、かなりご迷惑をおかけしましたが
おかげで素晴らしい太ヒカの花園になりました。

次回は太ヒカでR18出したいですね。今回はぎりぎり全年齢だったので

チェスターコートの隙間から入ってくる風が思いの外冷たくて、マフラーを巻きなおした。
電車の中があたたかいから油断していたけど、そういえば夜はだいぶ寒いとの予報だった。
JRからゆりかもめに乗り換えるのに屋外に出ただけで、首筋から足のつまさきまで寒くなるだなんて。
ちょっと出かけるだけだと思っていたからコートの下はシャツに薄手のカーディガンで、どうにも装備が軽すぎる。
世の中を甘く見ていた数時間前の自分を呪いたい気分だ。
資料となる本を買いに大型書店まで行ったはいいものの、目的のものをただ買って帰るなんてできるわけがない。
最近は検索機があるからすぐに欲しいものが見つかるけれど、僕はブラウジングするのが好きだ。
思いもよらぬところで興味を引かれる本を見つけて、ちょっとぺらぺらめくっているだけで、気付くと数十分。
ああ、時間は有限だというのに。
でもこれは気分転換と言うかもはや趣味なので、当面やめるつもりはない。
そういうわけで予定よりもだいぶずっしりしてしまったかばんを抱え、家路を急ぐ。
もうヒカリちゃんは帰ってきているだろうか。
ぽちぽちと片手で文字を打つ。

 ごめん、丸善行ってた。今からゆりかもめに乗るよ。

そういえば、ごはん炊いておいてねって言われてたのに、研いでもいないや。
ちょっといいかげんにしてくれよ、僕。ヒカリちゃんだって仕事で疲れてるんだから。
家事は分担と決めておきながら、自分のことでいっぱいになるとすぐこれだ。
なんとか説得に説得を重ねてようやく一緒に暮らし始めたのに、こんなんじゃ愛想をつかされてしまう。
悶々としている間に返事がきていた。

 ロイズのチョコレートのアイスが食べたいな。

ああ、あのコンビニで売ってるちょっと高いやつね。
ついでにブルーベリーのアイスも買って帰ろう。
前に一度食べておいしいって言ってたやつ。
まったくなんて可愛いおねだりをするんだ。今すぐ抱きしめたい。
電車の中でにやけてしまわないように、必死で顔を引き締める。
こうやってちょっとしたわがままを言ってもらえるようになったのがうれしい。
彼女の一言で僕は一喜一憂し、どきどきするんだ、いまだに。
電車を降りたところでもう一度、ぴろんと携帯が鳴った。

 晩御飯はシチューです。

見るだけであたたかな言葉。
このひとが待っていてくれる家に帰れるなんて、僕はなんて幸せなんだろう。
コンビニでさっとアイスを買って、早足でマンションに向かう。
さっきよりも全然寒さが気にならない。
早く、ヒカリちゃんに会いたい。
部屋の前まで来ると、クリームシチューの甘いにおい。
僕はここに、彼女と住んでいる。

おかえり。
ただいま。

ドアを開けるとあたたかなしあわせが立ち込めてきた。
逃がさないようにそっとドアを閉めて、ふたりは冬を溶かすくちづけをした。

#タケヒカ版深夜の真剣お絵かき文字書き60分一本勝負
2016/1/29「冬」

なんとなく帰りたくなくて、海浜公園のデッキにふたりもたれている。
お兄ちゃんから手渡されたホットのホワイトモカのおかげで、かじかんだ手がぬくもりを取り戻しつつある。
東京湾にちらちらと雪が溶けていくのを眺めながら、ほんの少しだけ、距離を縮める。
薄暗いから、だあれも気付かない。
「こりゃ積もるかもなあ。」
赤銅色の髪が輝いて、あたしは目を細めた。
大きめの結晶がお兄ちゃんの逆立った髪の毛の間に入り込んで、きらきら光を帯びている。
まぶしい。
火照った頬を悟られたくなくて、くるりと周囲を見渡すふりをした。
浜辺にはあまり人がいない。予報通りに降り出したから、人々は屋内に引っ込んだのだろう。
「なんか静かだな。」
あたしたちの間に雪が舞う。
「雪って、音を吸収するんだって。」
「ああ、なんか理科で習ったな、そんなの。」
大きな雪の結晶は宝石みたいに濃紺を帯びた空から落ちてくる。
しんしん、しんしん。
「ヒカリ、あたま。」
ぱさぱさとあたまに積もった雪を払う、その手。
髪に触れる指。
氷点下に近いはずの外気と、あたしの体温にはいったい何度の差があるのだろう。
そのまま、髪から頬に手がおろされる。
ひやりと冷たい手。
あたしは頬に添えられたお兄ちゃんの手に自分の手を重ねようとして、やめた。
冷たい手と冷たい手を重ねることに、意味があるのかしら。
だけどそっと離れていく指を見送るのも、なんだかぎゅっとしめつけられて、あたしは胸があつい。
「帰るか。」
コートの裾を翻して、お兄ちゃんは歩き出した。
積もり始めた雪をきゅっきゅと踏みしめていく。
あたしたちの間に雪が舞う。
白くかすんであなたが消えてしまいそうだから、うしろから、ぎゅっとだきしめた。
「   。」
私の言葉は雪に吸い込まれる。
「   。」
お兄ちゃんの言葉も聴こえない。
聴こえたらだめなの。
雪が解けて春が来ても、あたしたちの恋は芽吹くことはない。

#八神兄妹版深夜の真剣お絵描き文字書き60分一本勝負
2016/1/22「雪」

お母さんとお父さんはおばあちゃんのところに行ってしまった。
本当は4人で行くはずだったのに、もう3日も熱は下がらない。
せっかくお正月で、お兄ちゃんともゆっくりできると思ったのに。
ただベッドで寝ているだけって、こんなに静かで、世界にひとりぼっちみたいになっちゃうんだっけ。
最近はあまり風邪を引いてないから忘れてた。病気ってさみしいんだ。
お前なんかいらないんだよって、ずきずきする頭に響いてくるようで、くちびるを噛む。
意味をなさない温度になった冷却シートが額からずるりと落ちた。
お母さんが用意してくれた常温のポカリももうない。
あたし、このままいなくなっちゃうかも。
「ヒカリ…?ヒカリ!」
頬に触れたのは、ひんやりと気持ちのいい大きな手。
「ヒカリ、大丈夫か?」
「おにいちゃん…?」
ぼんやりとした影が焦点を結び、枯茶色の瞳にあたしが映っていた。
「こわい夢でも見てたのか?」
「…うん、ちょっと。」
ずれた布団を直す手が慈愛に満ちていて、何も言わないことの安心感がからだに広がっていく。
あったかいからだが戻ってきた。
「おかゆ作ったけど、食えそうか?」
「食べる。」
「じゃあ、あったかくして来いな」
カーディガンを着て廊下に出ると、やさしいにおいが鼻をくすぐる。
黙ってダイニングの椅子に座ると、見計らったように目の前にお茶碗が置かれた。
「野菜いっぱいいれたのね。」
「今日は7日だからな。」
そうか、七草粥の日か。
「別に七草全部入ってるわけじゃないけど、まあいいだろ。」
確かに、よく見るとこの細かく刻まれた葉っぱは白菜や小松菜だ。
「これ食って、早く元気になれよ。」
花柄の小さなお茶碗のなかに、これでもかと愛がつめられている。
「ありがとう、おにいちゃん。」
突然目頭が熱くなるのも、これもきっと熱のせい。
「いや、元々俺が夜中に連れ出したりしたからさ。」
「でも、初日の出、きれいだったよ。」
6時49分。若洲海浜公園のブランコに揺られながら、東京湾に広がる新しい光を見た。
寒いって言ったら、お兄ちゃんはあたしをブランコごとぎゅってしてくれた。
だからぜったい、お兄ちゃんのせいなんかじゃない。
ヒカリのことずっとあっためてくれてたんだから。
おにいちゃんがいれば、風邪引いてもこわくないよ。
「来年も行くか?」
「うん。」
お兄ちゃんが目を細めて、あたしの頭をぽんぽんなでた。
「食べたらちゃんと薬飲んで、あったかくして寝ろよ。」
「ねえおにいちゃん。」
既にコップに水を用意している背中に、届くかわからない小さな声を投げる。
「ヒカリが寝るまで、一緒にいてくれる?」
振り向いた季節外れのひまわりがほころんで、熱が少し上がった気がした。

#八神兄妹版深夜の真剣お絵描き文字書き60分一本勝負
2016/1/8「お正月」

クリームシチューにサラダ、バゲットとローストチキンが食卓を彩る。
グラタンにしようか迷ったんだけど、なんて僕の天使は歌っている。
フルートグラスが触れ合って、グロッケンみたいな音がリビングに響いた。
「ヒカリちゃんのローストチキン、おいしいんだよね」
「あら、ありがと」
「ほんとだよ。一年に一回じゃなくて、毎日でも食べたいくらい」
「毎日丸鶏たべるの?タケルくん太っちゃうわよ」
ふふふと笑う彼女の小さなおくちに、黄金色のモスカート・ダスティが注がれる。
微発砲のワインは口のなかではじけ、甘さと清涼感にこころときめく。
お皿がきれいになるのに反比例しておなかはじゅうぶん満たされたはずなのに、それでもデザートは別腹だ。
4号のチョコレートケーキをぽいぽいたいらげ、君は恍惚としている。
テーブルの上がチーズとクラッカーとワインだけになったちょうどいい頃合いに、いざ。
「ヒカリちゃん、メリークリスマス」
目の前にあらわれた真っ白い包みに、アマリリスのように可憐な瞳が大きくなった。
かわいいなあ、もう。
「わあ、ありがとう。開けてもいい?」
「もちろん」
彼女は丁寧に包みをほどく。飾りのフェザーがふわふわと揺れる。
「きれい…」
それはヤドリギをかたどった繊細な金細工の髪飾りで、実を模した小さなパールがあしらわれている。
ひとめ見て、ぴんときた。これしかないって。
「ヤドリギはね、幸福をもたらすと言われているんだって」
「ありがとう。つけてみていい?」
「僕がつけてあげる」
絹糸のような髪。触れるだけでどきどきする。
思った通り、亜麻色の髪に金とパールがよくなじんで、とてもきれいだ。
「似合うよ」
「えへへ、うれしいなあ」
清らかで、愛らしくて、無邪気で、妖艶で。
バラ色の頬で微笑む君は、聖なる夜に舞い降りた僕の天使。
「You are under the mistletoe.」
「え?」
「ヤドリギの下にいる女の子には、キスしてもいいって知ってた?」
天使の吐息は芳醇なモスカートの香りがした。

#タケヒカ版深夜の真剣お絵かき文字書き60分一本勝負
2015/12/25 お題自由

お父さんとお母さんが寝静まった頃、あたしたちはそっと家を出た。
別になにをするわけでもない。深夜のおさんぽ。
冷えるといけないからなんてお兄ちゃんはベンチコートやらイヤーマフやら腹巻やらをどんどんのっけいていくもんだから、あたしはもこもこになってしまった。
対してお兄ちゃんは、ダッフルコートとマフラーだけで、さみーなんて言っている。
いつもの海岸の、いつものベンチ。
カップル用の少し幅のせまいベンチで、もこもこのあたしはお兄ちゃんとぎゅっと体を寄せ合った。
あたしの右手はお兄ちゃんの左手の一部になって体温を共有している。

「今日は星がよく見えるな」
澄んだ冬の空は濃紺で、赤や白の星が良く映える。
流れ星だって珍しくもなく数分に1回ひゅんと落ちていく。
宝石みたいだ。ううん、違う。宝石がお星さまみたい。
今この夜空をふたりじめしているなんて、ロマンチックすぎて涙が出そう。

「あの、いちばん光ってるのが、おにいちゃんね」
「どれだよ」
「あの、ちょっとオレンジっぽいやつ」
「じゃあヒカリは?」
「ヒカリは、その隣のちっちゃいしろいやつがいい」
つないだままの手で星と星をむすぶ。
誰も知らない星座。あたしたちだけの。
「なに座にする?」
「ヒカリが決めろよ」
「えっとね、おにいちゃん座」
「俺だけじゃんか」
「じゃあ、おにいちゃんとヒカリ座」

なんだそりゃってくつくつ笑うお兄ちゃんの口からは、真っ白な吐息が流れ星になって出てきた。
つめたい手が頬に触れる。つめたいくちびるがくちびるに触れる。
熱い舌が歯茎に触れる。熱い衝動がハートに触れる。
海と空の境界線はあいまいで、水面に星が輝いている。
深海を泳ぐ宇宙船のなかで、あたしたちはふたりきりだ。
夜が明けなければいい。朝が来なければいい。
あたしたちの恋をオリオン座に閉じ込めて、二度と夜から出られないように。
夜明けがきたら光に溶けてしまうから、その前にどうか、幻みたいな恋を実感させて。
何億年も前の光のきらめきに見つめられながら、あたしたちは長い長いくちづけをした。

星屑のひとつの気分はこんな感じ。

#八神兄妹版深夜の真剣お絵描き文字書き60分一本勝負
2015/12/11「天体観測」