赤銅の毛並み美し狼が狙うルビーの甘い果実よ

腹減ったーなんて大声とともに帰ってきたお兄ちゃんは、その足でシャワーに直行した。
汚れものを上から下から全部つっこまれた洗濯機はごうんごうんと勢いよく音を立てる。
数分後、ボリュームのある髪をわしゃわしゃ拭きながら出てきたお兄ちゃんは、エプロン姿でキッチンに立っているあたしを見て疑問に思ったらしい。
「母さんと父さんは?」
「バレンタインだから二人で食事に行くって、朝言ってたじゃない。」
そうだっけ、なんてわざとらしく口にして、頭を振る。
赤銅色の髪からぽたぽたと雫が落ちる。
まるで大型犬だ。
「それでお前は、もうメシ作ってるのか?」
この痛いほどに甘ったるいキッチンにいて、よくもまあそんなことが言えたものだわ。
「見ればわかるでしょ。チョコレート作ってるの。」
製菓用のチョコ、薄力粉、無塩バター、卵、ココア、生クリーム、サワークリーム、クリームチーズ、その他様々な材料が己の役割を果たさんと並んでいる。
「今年は何作ってるんだ?」
「去年と同じよ。ガトーショコラとチョコレートチーズケーキ。材料が余ったらトリュフも作るけど。」
「やりい!俺チーズケーキのやつ好きなんだよ。」
知ってるわ。だって去年すごい喜んで、来年もこれがいいって言ったんじゃない。
「別にお兄ちゃんにあげるなんて言ってないわよ。」
なんてうそ。
たぶんお兄ちゃんにもばれてるうそ。
片目だけ目を細めて唇の端を上げている、余裕そうなその表情にいささか腹が立つ。
ピー、ピー、ピー、と、甘さで爆発しそうなオーブンがあたしを呼んだ。
オーブンを開けると、むせかえるようなチョコレートの香りで、我が家はあっという間にお菓子の家だ。
「これもう食っていいの?」
「粗熱冷ますからまだだめ。」
「なんだよケチだな。」
「ケチとかじゃないの。待っててよ、もう。」
へいへい、とカウンターキッチンの向こうでちゃんとおあずけしているこのわんこを、今すぐなでくりまわしたい。
チーズケーキは粗熱を冷ましたら冷蔵庫でちょっと冷やすから、その間にガトーショコラを焼かなきゃ。
牛乳パックで作った長方形の型に、作っておいたタネを流し込む。
どろりとゆっくり落ちてくるそれは乙女の恋の重さのようで、あたしは淡々とゴムベラで掬い取る。
センチメンタルになんてなっていられないわ。お菓子作りは戦争なのだから。
ガトーショコラは無事オーブンに格納されたので、ようやくひと段落だ。
板チョコと生クリームは少し余っているからちょっと休憩したらトリュフを作ろう。
その頃には焼きあがるだろうし。
ああ、その前にチーズケーキを冷蔵庫に移しておこうかな。
粗熱の取れたチーズケーキにラップをして型ごと冷蔵庫に入れる。
扉を閉めると、突然視界が影に遮られた。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
冷蔵庫に手をついてあたしを見下ろすその人は、先ほどまでと纏う雰囲気が全く違っていた。
背中は冷蔵庫、前にはお兄ちゃん。あたしはその場に立ち尽くすしかない。
「チョコレート、ついてる。」
頬をちゅっと吸い上げられ、あたしの頭は余熱もなしに180℃を超える。
チョコレート、ついてるなんて、絶対うそ。
だって普通に作ってたら、顔になんてつくわけないのよ。
何年お菓子作ってると思ってるのかしら。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
キッチンは薄暗くて表情は見えない。
「母さんも父さんもいないのに、ヒカリはずっとチョコ作ってるんだな。」
お兄ちゃんのためにはりきってチョコを作っているというのに、もしかして、このひとは、すねてるの?
お兄ちゃんの口からそんな言葉が出てきたことに驚いて、あたしの口から思わず笑いのようなため息がもれた。
「帰ってくるのは十時過ぎだって言ってたわ。」
まったく、世話の焼けるお兄ちゃんね。
でも今日はバレンタインだから。
わざとらしく瞳をつむってあげちゃう。
後ろでぶうんと冷蔵庫が鳴った。
お兄ちゃんは、大型犬なんかじゃなかったわ。

#八神兄妹版深夜の真剣お絵描き文字書き60分一本勝負
2016/2/12「バレンタイン」

Posted by 小金井サクラ