部活が終わってから携帯を見ると、メールが1通きていた。
差出人は、八神太一。
ぐらぐらと足元から崩れてしまいそうな気持ちを抑え、ゆっくりと制服に着替える。
早くメールを見てしまいたい、いやむしろ決して見たくない、などと悶々考えていたらシャツのボタンをひとつかけ違えていた。
面倒だったのでそのままにしてブレザーに袖を通す。
太一からメールなんて久しぶりだ。
だって私たち、あの日以来会話もしてない。
悪い報せだろうか、良い報せだろうか。
何が書かれていてもきっと涙しか出ない。

家に帰ると母は出掛けているようだった。
制服から部屋着に着替え、ベッドに腰かけて携帯電話を握りしめた。
息を限界まで吸って、ゆっくりゆっくり吐き出す。
意を決してぽちぽちと携帯のボタンを押すと、光る液晶の中で黒々とした文字が鋭利な刃物で胸を刺すように飛び込んできて、目眩を覚える。
ほらね、やっぱり悪い報せじゃない。
涙が止まらない。

あの日太一はラブレターをもらったのだった。
後輩の女の子で、サッカー部の練習をよく見ていて憧れていたとかなんとか。
空、俺、どうしよう。
彼は私に相談しにきた。件のラブレターを持って。
「全然知らない子なんでしょ?」
「ああ」
「どんな子か知らないんじゃアドバイスのしようもないわよ」
「そりゃあそうだけどさあ」
太一は珍しく動揺している。
16年生きてきてはじめてもらったラブレターを目の前に、難しい顔をしてうなっている。
「空はラブレターとか書いたことないのかよ」
バカ太一。
「ないわよ」
「頼りにならねえな」
「悪かったわねえ」
そのラブレターの主に、私は心当たりがある。
『八神先輩とどういう関係なんですか』
真っ赤になってぷるぷる震えながら、か細い声で問い掛けられた。
瞳はゆらゆらとうるみ、拳を胸の前でぎゅっと握りしめながら、それでも強さを伴ったまなざし。
私のことをそんな目で見ないといられないほど、この子は太一が好きなんだわ。
『恋人同士なんですか』
『違うわ』
少女はほっとしたように笑い、ありがとうございましたと言って友達の方に駆けていった。
きっとあの子なんだろう。
大人しそうで、儚くて、可愛らしい、女の子らしい女の子。
「いいじゃない、付き合ってみれば」
「お前そんな簡単に…」
「じゃあ断ったら?」
意地悪をしているんじゃないの。自分でも何て言えばわからないの。
一番言いたいことは言えないの。
今ここで私が太一に好きだって言うのは、フェアじゃない。
私は想いを伝えることをずっと怠ってきた。
太一の「親友」の立場を利用して、ずっと居心地の良い場所で過ごしてきたから、あんなふうに何もかもを振り絞って想いを紡ぎ出す彼女に胸を打たれた。
私はなんてずるいんだろう。
恋はあせらず、だけど早い者勝ちだ。
彼女はラブレターを書くことで、舞台に登った。
一方私はまだ楽屋を出てすらいない。
それなのに、今まさに舞台に引き立てられようとしている太一を舞台袖で止めるような真似をしてはいけない。
ハッピーエンドにするかどうか、決めるのは太一だ。
「とにかく、会ってから考えてみたら?」
二週間もたてば、サッカー部の練習が終わった後に、肩が触れ合うくらいの距離で歩く二人の姿をよく見かけるようになった。
それきり太一とは話をしていない。

私は走った。泣いた。走った。泣いた。泣いて走った。涙を乾かすように。
どうして今さらそんなこと言うの。
太一は私にどうしてほしいの。
私の恋はあの日に終わった。終わりにしようと決めた。
私は舞台にも立てなかった。
想いを伝えた人にしか寄り添う権利はないの。
恋は早い者勝ち。
彼女が行動を起こすまで、太一に告白しようなんて思ってもみなかった。
ずっと一緒にいられるものだと信じて疑わなかった。
この世の春のような笑顔で頬を染める彼女を目の当たりにした時、心に刺さった棘からじわじわと血が滲み出した。
私はきっと太一の特別だった。でも特別だからって恋人になれるわけじゃない。
親友。仲間。幼なじみ。でも恋人じゃない。
私は太一を避け続けた。
太一は私が気をつかってると思ったのか、それとも彼女の方に何か言われたのか知らないが、別段話しかけても来なかった。
あのとき、なりふりかまわず太一に告白していたらよかったのかしら、いやいやそんなこと考えちゃいけないわ、だって太一はあの子と幸せなんだから、って何百回も考えて、考えに考えた結果、何も言わずに諦めて、苦く美しい青春の思い出にしようと決めたのだ。
なのに今さらわざわざそんなこと言ってどうしたいの。どうしてほしいの。
なぐさめてほしいのか、それとも。
太一は私を好きじゃない。仲間だって、親友だって思ってる。そんなことわかりきってる。
だってあの子にしているように、目を細めてはにかんだり、薄い紙を一枚隔てているみたいに手をつなぐなんて、私にはしない。
どうしてさっさと幸せになってくれないの。
どうしてさっさと諦めさせてくれないの。
私はどうしたらいいの。

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From : 八神太一
To : 武之内空
Subject : 無題

あいつと別れた。
やっぱりお前と一緒にいるのが一番いい。

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私は走った。公園を抜けて海に出る。
夕陽が沈む直前の、半分橙色で半分紺色に染まる空を見上げて、また涙がこぼれた。
身体中の水分と言う水分全てが目から溢れてからっぽになってしまう。
いつの間にか濃紺は橙を覆いつくし、空にはちいさな星がきらきらと光っていた。
いつかこの涙が止まるとき、私はまた恋をするんだろうか。
これは、彼とずっと一緒にいるための、親友になるための儀式。

「ずっと太一が好きだったの」

最後の台詞は海風にかきけされて幕が下りた。

今日は朝からバタバタして落ち着かない。あれやこれやとしているうちにもう昼過ぎだ。
ひとやすみしましょうと、彼女が紅茶を淹れてくれた。花びらがたくさん入ったフルーティーな香りの紅茶だ。
お気に入りのソファでティータイムなんて、なんだか幸せな気分になる。
「私たち、付き合って何年くらいたったのかな」
「10年ちょっとかな。」
「二人で暮らしはじめてからは?」
「もうすぐ3年だね。」
「なんか、早いねえ」
カップについた口紅をぬぐう彼女をみて、大人になったなあと僕もしみじみしてしまう。
「タケルくん、告白してくれたときのこと、覚えてる?」
ほんの少しだけ、横目で僕を見ながら君はそんなことを言う。
「恥ずかしすぎて忘れられないよ。」
苦笑している僕の方を向いて、今度はしっかり目を合わせる。少女のような瞳。
「私一言一句思い出せるわ」
「思い出さないで」
ヒカリちゃんにとっては記念すべき出来事だったのかもしれないが、僕には思い出どころか黒歴史だ。
「爆発する、僕のアムール」
「こらこら」
「君の心のフォーカス、誰に合っているのか、それだけ」
「やめてー!」
「知りたいんだ」
ああ、中学生の僕よ。
ヒカリちゃんのことが好きで好きで好きですきでたまらなくて思い悩んで、色んな恋愛の歌を聞いて、恋愛物語を読んで自己投影した結果、えらくポエミイになっていたあの頃の僕よ。これは一生言われ続けるから覚悟しろ。
「あのときかけてた曲のタイトル、わかる?」
「曲はわかるけどタイトルまでは…」
あのときの彼女が知らなくて本当によかった。
僕も歌詞の意味をはっきり知ったのは告白した後だったから、もしかしたらえらく大胆なことをしてしまったかも知れないと実はずいぶん悶々としていたのだった。
「Je te veux.」
「フランス語?」
「そう。あなたが欲しい、って意味。」
「あらまあ」
なんて笑顔だ。そんな慈しむような目でみるのはやめてくれ。
「すごく恥ずかしい」
隠しても隠しきれない恥ずかしさをごまかすために紅茶をいただく。口もとに近づけると、華やかな香りがした。
「タケルくんでも恥ずかしいなんてことあるのね」
「あたりまえだよ、どれだけ緊張したと思ってるの」
「緊張、してくれてたのねえ」
あのときのことで覚えているのは、とにかくヒカリちゃんに思いを伝えたかったこと、その肌に触れたかったこと、いざ目の前にしたらあまりにも君が可愛すぎて、キスしたくなったこと。
「Que mon c?ur soit le tien,
Et ta levre la mienne.」
深海にいるみたいに、他になにも聴こえなくなる。ただ君だけを五感で感じるキス。
「Que ton corps soit le mien,
Et que toute ma chair soit tienne.」
僕たちはお互いに溶け合って、どっちがどっちかもうわからない。
心も体も、僕は君のものになり、君は僕のものになる。
「私ね、もしもこどもができたら、お父さんはこんなにお母さんのことが好きなのよって教えてあげるの」
「じゃあ僕は、お母さんはこんなにお父さんのことを愛してるよって教えてあげよう」
ふふふと君は笑って、僕の鎖骨に唇を這わせた。

「そろそろ出ようか」
彼女はウエストで切り替えのある紺のワンピースに着替えた。
襟のステッチがかわいい僕のお気に入りの服だ。
「僕の格好、へんじゃない?」
ジャケットはどうにも着なれなくて、上手に着れているのかよくわからない。
「とっても、素敵よ」
今日は彼女の家でごちそうになる予定だ。きちんとしていかなければ。
「ああ、緊張する」
「ちなみに今夜はお寿司だそうです」
「うわあ」
うれしいけど、喉を通るかどうか。
「大丈夫?僕殴られたりしない?」
「お父さんは大丈夫だろうけど、お兄ちゃんには、殴られるかもね」
いたずらな瞳でにこにこ笑う君。
「こわいこと言うなあ」
「冗談よ。むしろ、ふたりとも泣いちゃうんじゃないかしら」
「それもきつい」
どちらにせよ彼女の兄の餌食になることに間違いないようだ。
「頑張って!白馬の王子様になってくれるんでしょ!」
「もうやめてってば!」
満面の笑みで10年前のセリフを未だに蒸し返す彼女は、僕の背中をぽんと叩いて玄関に向かった。
ついこの間買ったばかりの青い石のついた指輪が、薬指できらきらと小さな光を帯びている。

勝手知ったる彼女の家では、僕は顔パスだ。
彼女の母は、タケルくんが来たなら安心ねと買い物に出掛けていった。
彼女の部屋の前まで来ると、吐息のような声が漏れ聞こえてくる。
少しだけ、耳を澄ますと、聞こえてくるのは布がこすれる音と切れ切れの吐息。
彼女が、彼女の大好きな人を想いながら、その身に秘める欲望を発露させているのだろう。
一呼吸おいてからコンコンとノックをすると、ぱたぱたと布団を直しているような音がして、少し笑ってしまった。
うわずったような声でどうぞと言うので、笑いをこらえながらドアを開ける。
「具合はどう?」
彼女の部屋での僕の定位置はベッドの脇だ。ベッドの脚をいつも背もたれにしているから、彼女が背中用のクッションを用意してくれた。やわらかくて気持ちいいからお気に入りだ。
「まだちょっと、だるいかな」
上気した頬は風邪のせいだけではないのだろう。
「起き上がらなくていいよ」
ふとんとパジャマは直しても、髪の毛がくしゃくしゃのままで、そんなところも、たまらなくいとおしい。
「いいの。寝すぎてちょっと退屈だったから」
嘘なんかつかなくてもいいのに。
そういうことを言うと、困らせたくなる。
赤みがかった頬に手を当て、うるんだ瞳をじっと見つめる。そのままキスしたいのをぐっとこらえて、もう片方の手を額に当てた。
「まだちょっと熱っぽいみたいだね」
触れた手から感じる君の体温が、僕以外の人のことを考えて持った熱だということが、余計に僕をたぎらせる。
「誰のことを考えてたの」
離さない。額と頬に添えた手をゆっくりとすべらせて、背中に回す。
「大好きな人のことを、考えてたの」
自分の中から熱が沸き上がる。
嘘をつかないでくれよと思いながら、いざ本当のことを言われると、自分でも制御できない感情に突き動かされる。
「好きだよ」
何もかも、壊して、ぐちゃぐちゃにしてしまいたくなるんだ。
「うん」
か細い声が静かな部屋に響く。
もうこのまま押し倒して好きにしてしまいたいくらいに暴発寸前の僕をとどめたのは腕にこぼれ落ちてきたあたたかな雫だった。
「泣かないで」
君が大好きな人を想って流す涙を、僕が拭ってキスをする。僕たちはそういう関係でいい。
「僕はヒカリちゃんが好きだから、ヒカリちゃんが誰を好きでも、僕のそばにいてくれるだけでいいんだ。いつも言ってるでしょう」
これは甘い罠。君が僕なしでいられなくするための罠。お兄ちゃんのことが大好きな君のことを大好きな僕が、君の恋の受け皿になる。

「嫌いになってくれたらいいのに」
自己嫌悪に陥って、どうしようもなくなって、ぐちゃぐちゃになったところで、僕が君を全部受け止めてあげる。
「僕が?それとも、太一さんが?」
太一さんが君に恋をすることはないように、太一さんが君を、嫌うことなんて絶対にない。
君だってわかってるんだろう。
なのにそういうことを言う。
「嫌いって、言って」
僕が君を嫌いだなんて、どうしたら言えるんだろう。
本当は逆なんだろう。嫌いだなんて言って欲しくないんだろう。本当は、
「好きだ」
って言って欲しいんだろう。僕じゃなくて太一さんに。
ぎゅっと、さっきよりも力を入れて抱き締める。
君を壊して壊して、ぐちゃぐちゃにして、粉々になったところで、僕が君のかけらをひとつ残らず拾うよ。
君とずっと一緒にいるために、蟻地獄に君が落ちて行くのを待って迎えに行くから。
そうしたら君はもう、僕なしでいられない。
火照りの消えない頬に手を当てる。
ゆっくりと、吐息を混ぜ合うように口づけた。
「風邪、引いてるのにごめんね」
言い終わるのがはやいか、今度は君の方から唇を重ねてきた。
「風邪、うつったらごめんね」
自己嫌悪と愛情と倫理観の狭間でぐらぐらしている君は不安定で美しい。
きっと君は、僕の気持ちを利用しているとかって気に病んでるんだろう。
それでいいんだ。気にして、気にして、僕のことを考えて夜も眠れなくなってしまえばいい。
君の罪悪感を利用しているのは、本当は僕の方だよ。

また熱を出した。
季節の変わり目には決まって風邪を引く。
一人きりの部屋で横になっていると、私はいつも同じことを考える。
そんなに御大層なことじゃない。
中学生女子にありがちな、なんでこんなに彼のことすきなんだろう、といったことだ。
一人でベッドに横になって、大好きな人のことをゆっくり考える。
優しくて、意志が強くて、思いやりがあって、みんなから尊敬されてて、思慮深くて、決断力があって、私のことをとびきり大切に思ってくれている。
あんなあったかい瞳に見つめられて好きにならない人なんているんだろうか。
なんて素敵なんだろう。
上げればきりがないくらい。
ほんとはね、あなたのことぎゅっと抱き締めて、耳もとで好きよって言って、手を握って、見つめあって、唇をよせて、体温を感じあって、それから…

コンコン、と丁寧なノックの音がした。
抱き枕のようにぎゅむと抱いていた掛け布団をそそくさと直し、どうぞ、と声をかける。
誰が来たのかは分かる。私の部屋に入るのにノックをして返事を待つ人なんてひとりしかいない。
「具合はどう?」
案の定、金色のやわらかな髪をゆらした少年がドアのすきまから顔を出した。
「まだちょっと、だるいかな」
彼はいつも私の部屋に来ると、ベッドの角を背もたれのようにして座る。私は彼のためにクッションを買った。背中が痛くないように。
でも今日は私がベッドにいるから、彼はいつも背中にあてているクッションを床に敷いて座った。
タケルくんは私の恋人。
「起き上がらなくていいよ」
碧の瞳をこちらに向けて微笑む。
タケルくんは私の恋人。
「いいの。寝すぎてちょっと退屈だったから」
彼は私の頬に手を当て、じっと私を見ると、もう片方の手を額に当てた。
「まだちょっと熱っぽいみたいだね」
手も目もはずさないまま、彼は言う。
「誰のことを考えてたの」
海のような紺碧の瞳が私をとらえて離さない。
どうしてこの人にはすべてわかってしまうんだろう。
「大好きな人のことを、考えてたの」
いつの間にか彼の腕は私の背中に回されていた。
彼は何も言わず、ただ私をぎゅうと抱き締める。
耳にかかる吐息からじんわりと彼の熱が伝わってくる。
あなたはなんで私のことをこんなに想ってくれているんだろう。
なんで私は、あなたが私を想ってくれているのと同じように、あなたを想っていられないんだろう。
なんであの人は、私があの人を想うのと同じように、私のことを想ってはくれないんだろう。
「好きだよ」
絞り出された彼の想いが胸を突く。
「うん」
優しくて、意志が強くて、思いやりがあって、みんなから尊敬されてて、思慮深くて、決断力があって、私のことをとびきり大切に思ってくれている、私の恋人。
あなたとあの人は似ているの。
私の大好きなあの人の好きなところは、あなたにもあてはまるのに、どうして、こんなに、全然違うの。
「泣かないで」
知らぬ間に流れていたらしい涙を指先でぬぐって、彼は目元に優しくキスをくれた。
全てを知って受け入れてくれる彼に甘えている私はずるい。
「僕はヒカリちゃんが好きだから、ヒカリちゃんが誰を好きでも、僕のそばにいてくれるだけでいいんだ。いつも言ってるでしょう」
自己嫌悪でぐちゃぐちゃになりそう。
なんで私はこの人のことを愛せないんだろう。
いや、愛してはいる。他の人とは違うとても特別な想いを抱いている。けれど。

なんで私の大好きな人は私のお兄ちゃんなんだろう。

「嫌いになってくれたらいいのに」
彼の顔が歪むのが、見えなくてもわかる。
「僕が?それとも、太一さんが?」
私が妹じゃなければよかったなんて思わない。だって妹だから、とびきり大切にされて、優しくされて、思われてきた。でもお兄ちゃんは私のことを、私と同じように想ってはくれない。
「嫌いって、言って」
お兄ちゃんが私を嫌いになったら、お兄ちゃんを好きなことをやめられるんだろうか。
タケルくんが私を嫌いになったら、タケルくんに甘えるのをやめられるんだろうか。
「好きだ」
あなたは、いつもそう。
ぐずぐずしている私を、どんと落とし穴に突き落とす。そうして落とし穴に迎えにくるみたいに私を愛するの。
ぎゅっと、私の体を抱く彼の腕に力が入る。
本当はどっちにも嫌いになんてなって欲しくない。
本当は私が一番私を嫌い。
だけどわからないの。この気持ちをどうすればいいのか。
どうすればこの恋が終わるのか。
終わらせたらどうなるのか。
彼の手のひらが私の頬に添えられる。
ゆっくりと、吐息を混ぜ合うように口づけた。
「風邪、引いてるのにごめんね」
首を振るかわりに、もう一度唇を軽く重ねる。
「風邪、うつったらごめんね」
私は最低だ。彼の気持ちを利用して、甘えて、傷つけて、なんて、醜いんだろう。
でも私は知っている。醜くて汚い私を彼が全部まるごと受け入れてくれることを。
苦しい恋を諦めてしまいたくなるような、甘美で残酷な私の恋人。

最近よくきかれるの。タケルくんとどういう関係なのって。」
唐突に、心底面倒くさそうにヒカリは呟いた。
ソファに深く腰掛け、クッションをぎゅうぎゅう抱きながら、不服そうな顔でこちらを見ている。
「なんて答えるの?」
「友達だよって。だって面倒くさいじゃない。」
穏健派な彼女としては、不要な争いは避けたいがためにそう言うのだろうが、納得しないのだ。僕たちの周囲の人々は。
中学に入ってから、僕たちの環境は大きく変わった。
2年生になっても僕たちがあまりに仲が良いせいで、彼女は一部の、僕のファンだと自称する女子たちからやっかまれている。
まったくオンナノコは大変だ。
僕はといえば、のらりくらりかわしている。太一さんとお兄ちゃんが仲良いから僕たちも小さい頃から仲良くて、なんて言っておけばまず問題ない。
男は縦社会だから、太一さんなんて部活動に影響力のある先輩とつながりがあるってだけで不用意に手を出されることはないんだけど、女子はそうもいかないみたいだ。
大人っぽく色っぽくなってきた彼女は男子の人気もあるもんだから、羨望と嫉妬の入り交じった感情をぶつけられることは多い。
友達なんてうそ、付き合ってるんでしょ、付き合ってないならなんでそんなに仲良いの、色んな男もてあそんで、男好き、なんて、結構言われてるらしい。
まったく、ばからしい。 僕のファンだと言うのなら、僕の耳に入らないようにしてくれよ。
幸いヒカリちゃんはそんなに気にしていないようで、ただただ対応が面倒なだけらしい。
正直怒鳴り散らしてやりたいこともあるけど、彼女はそんなことを望んでないのでじっと我慢だ。
名前も顔もわからない君たち何十人よりも、八神ヒカリのことをどれだけ僕が大切に思ってるか。
それが恋なのかという一点だけがみんな気になるみたいだけど、僕たちの間にあるものは、果たして。
「どういう関係、か。難しいね」
「友達、親友、仲間、兄弟、家族、どれもあてはまるような気がするし、どれも違う気がするの。」
僕たちには僕たちにしかない時間が流れている。あの冒険で一緒に戦って、涙した経験をたった一言で言い表せるわけがない。
「変な話、恋人になろうって言われたらなれると思うし、そのまま結婚してもいい関係を築けそう。」
彼女は下から覗き込むように僕の顔を見る。クッションで隠れてはいるけれど、その唇の端は少しだけ上がっているのだろう。
あなたもそう思うでしょう、とでも言いたげに。
「たしかに、恋愛よりは結婚の方が僕もしっくりくるかな。」
アイスティーの氷が溶けて、かろん、と小さな音をたてた。
「広い意味で、愛よね。」
「そうだね、広い意味で愛し合ってると思うよ。」
両腕で彼女が抱え込んでいるクッションを、ぽふん、と軽くたたく。彼女は満足そうに笑みをこぼす。
彼女を守りたいと強く願ったあの頃。
彼女を守る強さが欲しい。闇に引き込まれてしまう彼女を取り戻せる希望になりたい。
これは愛だ。恋愛かどうかは別として、これは愛だ。
僕たち2人の紋章は特別で、僕たちの間には他の人が決して踏み込むことのできない部分がある。
あの冒険で一番年下だった僕に、守られるべき存在だった僕に、守りたいものができた。
でも君はもちろんただ守られるだけではなくて、気高くて、強くて、美しかった。
女神みたい、と憧れたのは僕の方。
僕がヒカリちゃんを守るんだと思っていた。だけど、救われたのは僕の方。
彼女を守るという役目を果たせることが、僕にとっての誇り。
彼女があの暗くおぞましい海に行ってしまったとき、彼女が僕の呼びかけに応えて、僕を呼んでくれたから、僕は君を迎えに行くことができた。
太一さんやテイルモンと同じくらい、僕もヒカリちゃんの中で特別な存在になれてるかな。
「正直、お兄ちゃんやタケルくんをさしおいて、それ以外の人を恋愛として好きになれる気がしないの。」
「僕を越えても太一さんがいるんじゃ無理だろうね。」
彼女にとっての神であり太陽であり理想の男性である兄は、僕がどれだけ進化したって敵う相手じゃない。
彼女の恋人の座を手に入れるためには、太一さんより魅力的にならないといけないなんてハードルが高すぎる。クラスメイト程度では全く歯が立たないだろう。
かといって僕だって誰かと恋愛をするだなんて考えられない。
友達のような恋人のような家族のような、こんなに大切な人がいるのに、他の誰かに恋愛感情を持つことなんてあるんだろうか。
大きなクッションを自分の膝にのせ、彼女は僕との距離を縮めてくる。
「私たちの関係をこれってあてはめて名前をつけることはできると思うけど、でも結局私たちの関係性はなにひとつ変わらないのよね。枠組みとか名前なんて意味はないの。なにかに名前をつけると、必ずその名前からこぼれおちてしまうものって出てくる。それでも敢えて名前をつけるとしたら、それは「私とあなた」って関係かな。」
「僕と、ヒカリちゃん?」
「そう、私とタケルくんだけの、「タケルとヒカリ」っていう関係。」
「それは、特別な関係だね。」
そんな特別な人がいたら、本当に恋愛なんかできそうな気がしないな。
ごくりと喉を鳴らしてアイスティーを飲み、ずいぶん前から考えていたことを初めて、冗談混じりではあるが口にしてみた。
「10年たっても特別に特別な人ができなかったら、結婚しようか。」
一瞬、大きく目を見開いたかと思うと、彼女の顔がぐっと近づいてきた。
うふふふふ、と笑う君の頬にほんの少しだけ赤みがさしている。
瞳にはおもちゃをみつけた子猫のようなきらめき。
「それってプロポーズ?」

君のからだが夕陽につつまれてオレンジ色に溶けていくのをみるのが好きなんだよ。

どうしていつもカーテンをあけるの?という彼女の問いに答えるタイミングを逃してしまったのは、彼女の唇がそのまま僕の耳を覆ってしまったからだ。
耳たぶを甘噛みされて情けない声がでてしまった。
ふふふと少女のように笑う、とてもかわいい僕の恋人。
窓際に置いたソファで僕たちはいつものように肌を寄せ合う。
夕陽が射し込んできているから電気はつけていない。
君が僕のからだの至るところにキスするのを、僕はじっと見ている。
とても愛しい僕の恋人。

「タケルくん」
君が呼ぶ名前は湿った空気を通して僕の喉元まで届く。
「愛してる」
主語がない彼女の言葉は吐息となって消えた。

「タケルくんの髪は、夕陽にあたるときらきらして、とってもきれい」
「そうかな?」
「大好きよ」

やわらかな手で髪に触れ、そのままゆっくりと下げてゆく。
右手は首筋に、左手は僕の胸から腹にかけてをゆっくりと、触れるか触れないかの絶妙な指使いでなぞり、太股の付け根で止まるものだから、さっきまで僕の欲望そのものを弄んでいた桜色の唇を乱暴にむしりとった。
汗ばんだからだをのけぞらせて、君は何度も愛してると嘘をついた。
今夜も君は僕のからだを思い出しながらひとり自分を慰めるのだろう。
君が愛してるお兄ちゃんのことを想いながら。

君のからだが夕陽につつまれてオレンジ色に溶けていくのをみるのが好きなんだよ。
君が本当に好きな人と愛し合ってるみたいにみえるから。