天使にはなれなかったの 髪先にふれる優しさ 知っていたから
噴水の前にたたずむ少女は、俺の顔を見るなり満開にほころんだ。
22時半に、上野公園。
お花見に行きたいの、というかわいい妹のおねがいを、バイトだとか部活だとかでのらりくらりとかわしていたら、
「金曜日はバイト何時まで?」
「22時まで。」
「じゃあ22時半に上野公園ね。」
夜桜も素敵よ、なんてあれよあれよと言う間に決められてしまって今に至る。
白いワンピースの腰元はリボンで縛られ、裾をふわりとひろげながらこちらにかけてきた。
「お兄ちゃん。」
久しぶりに聴く鈴の音が俺の知らない甘さを帯びていることに、気付かないふりをした。
「元気だったか?」
「お兄ちゃんこそ。全然帰ってこないからお母さんもお父さんも心配してたよ。」
たまには顔くらいみせてあげてよね、なんて肩まで伸びた髪をかき上げながらいっぱしの口をきく。
夏休みも年末も春休みも、バイトや部活が忙しいという名目で、お台場のマンションには帰らなかった。
むしろ忙しくなるためにわざわざサークルではなく大学のサッカー部に入ったようなものだ。
「大学生は高校生と違って忙しいの。」
桜並木は重たそうに枝をもたげて俺たちを招き入れる。
満開の時期は過ぎたとはいえ、まだまだ所狭しと空を埋め尽くす。
提灯にぼんやり照らされ、花びらはまさしく舞い散ってゆく。
自分の足元さえ見えなくなりそうだ。
圧倒的な桜の本数にみとれているのか、ヒカリは何も言わずゆっくりと歩く。
俺たちの間を、桜の花びらが風と手をとって踊っている。
階段を下りて道路を渡ると、不忍池についた。
暗い池が白やピンクで覆われている様は不気味な美しさがある。
「水辺は、やっぱりちょっと涼しいね。」
俺のシャツでも羽織るか、と口にでかけた言葉を、春の空気と一緒に飲み込んだ。
過保護はやめたんだった。
昔みたいに手を繋いだり、腕を組んだりもしない。
「桜がこんなに明るいと、池は寂しくないのかしら。」
大きな風がヒカリの髪を撫でていき、耳元がきらりと光った。
天使の羽のイヤリング。
何年か前の誕生日に俺がプレゼントしたものだ。
「そういえば、昔お前が変な化粧してたことがあったなあ。」
「やだ、そんな昔のこと覚えてないでよ。」
「大人っぽくなりたいとか言って派手な服着てさ。」
「やめてよもう恥ずかしい。」
「化粧、上手くなったんだな。」
「もう高校生だもん。」
あの頃、大人っぽくなりたいと下手な化粧をしていた少女は、今まさに大人の女になろうとしている。
「早いもんだな。」
「お兄ちゃんが、1年も帰ってこないからよ。」
ルビーの瞳はいつだって俺のからだの奥を締め付ける。
俺の浅はかな考えなど、きっととうに気付いている。
「兄ちゃんには、すきなひとがいたんだ。」
提灯のあかりでぼんやりと輪郭が歪む。
「だから、家を出たの?」
左手の薬指を撫でる。鎖をつけてつないでいられたらいいのに。
「ばかね。」
いつからこの宝石はこんなに艶めいていたのだろうか。
夜も深く、池のほとりは静かだ。
どこか遠くで鳥が鳴いている。
「時間大丈夫か?そろそろ終電だろ。」
桜に染まった頬とくちびるは、幻覚にも似た動きで俺の神経をむしばんでいく。
「今日は、お兄ちゃんのとこに泊まる。」
天使の羽は、鱗粉を降らせて舞うのだろうか。
「泊まってってもいいでしょ?妹、なんだから。」
「そうだな。妹、だもんな。」
花は散り、春は終わる。
風が夏を連れてくる。
#八神兄妹版深夜の真剣お絵描き文字書き60分一本勝負
2016/05/13 最終回 お題自由